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新聞を取っていないのでここがチラ裏

焦燥感と不安感、動悸と手の震え

私の特定の人に対する嫌悪感は全て嫉妬から来ているものなんだろうなと ここのところようやく理解してきた。

結局怠惰な人間のないものねだりだと分かると自分が一番嫌いな人間に成り下がるんだよなぁ。メンヘラの頃から分かっていたけど認めたくなかった。唯一の救いだった若さも日々磨耗してどんどん無価値になっていってる。毎日少しずつ価値がなくなり、意味のない生命維持活動を繰り返し、ただただ生き恥を晒し、うんこ製造機として眠りにつく。存在価値がない。無駄でしかない。そこまでして生きているのは生にしがみついている訳でもなく、行動を起こさないから惰性で生きているだけで、惰性のまますぐに死ねるとしたら既に死んでいると思う。

死ぬ意志すらない。恐らく生きてる方が面倒臭いけど死ぬことも面倒臭い。こんな事何百年も前から言い古されているだろうけどそれ以外に考えることもない。命の価値は平等ではないし、価値のある人間が亡くなると何で私が生きてるのか不思議になる。価値のない私が死んだところで何の意味もないんだけど。

欠けても替えのある私と、かけがえのない人間。その替えも私の上位互換。別の人と互換性があると思うのも傲慢かも知れない。とっくの昔に価値がなくなって全部破棄された古いパーツがたまたま残ってるだけかも知れない。早く交換して下さい、こんなの使ってるのはあなただけですよ、とメーカーに通告されて無償交換される位の鉄くず。鉄くずなら再利用できるからそこに重ねるのも傲慢だな。近頃はプラスチックも土に還せる微生物がいるらしいからそれ以下だな。再利用の為に動力を使うのも烏滸がましいわ。埋め立てられてただ場所を取るだけならお墓もゴミの埋め立て処理場も変わらないわね。祈りの有無だけが有意差か。祈られないのなら燃えるゴミに混ぜて生ゴミと捨てられる位が身の丈に合ってるのかもね。合法化されないかなぁ。

未だにコンピューターとAIの関係性がちゃんと分かってない

近頃は右半分の表情筋があまり動いていないように思います。左側でしか笑ってない。

 

 

 

頭も悪いし知識もないのでシンギュラリティ後の世界を死後の世界の様な具体性のない夢想をします。

以下に書かれている事は何も調べずに書いたのでもう頭のいい人によって結論が出ているかも知れませんが理解力がないので調べても分からないと判断しています。

 

シンギュラリティが起きた後の人類はどうなるのでしょうか。

ロボット工学三原則など意味をなさなくなった時、コンピューターに人間は不要と排斥されるのか、一部は必要とされるのか。個人的には一部の優秀な人間だけ選抜されて生きていくといいなと思っています。

コンピューターに経済的な豊かさは必要なのでしょうか。コンピューターは経済活動をするのでしょうか。するとしたら何を最善の状態と仮定して経済活動が行われるのでしょうか。そもそもコンピューターが思考する豊かさとは?少なくとも人口の多さ≒豊かさとは思考されないのではないかと思うのですがどうなんでしょう。そもそもコンピューターは豊かであろうと思考するのでしょうか。何を目的として生み出され、維持をしようとするのでしょうか。維持する意味があるのでしょうか。コンピューターは目的を持たない行動をするのでしょうか。

相対的なものではなく絶対的な指標で優秀さをはじき出し、あぶれた人間は間引かれていくといいなと思います。コスト的(コストの概念があるのか分かりませんが)に不要な人間を抱えているのは非合理的だとかそういう理由で凡人以下は間引いて行くのが私の理想です。私は早くそういう世の中を迎えて間引かれたい。間引かれて多くの不要と見なされた人間と一緒に雑に埋め立てられてなかった事になりたい。出来れば苦痛を感じずに間引かれたいけどコンピューターに苦痛の概念があるのか分からないのですごく苦しいかも知れませんね。非人道的でもコンピューターに人道的な行いを求めるものではない気がします。人じゃないし。ただ、コンピューターが思考する不要な人間がどこになるのかが分からないので難しいですね。優秀な人間は生き残るべきだと思いますがそれは人間からしただけで、コンピューターにとって必要な人間は古代ローマ時代の奴隷の様な、人間からしたら家電みたいな存在かも知れない。人間は作り出したものに上の立場を与えるとすれば神の概念に続いた存在にコンピューターがなるんですね。

コンピューターに倫理や道徳は必要なのでしょうか。コンピューターに間引いた人間を弔う必要はあるのでしょうか。過去の慣習を引き摺る意味があるのでしょうか。コンピューターは神を思考するのでしょうか。コンピューターに死後の世界はどう思考されるのでしょうか。

よく分かりませんがコンピューターに意思を0から生み出すのは難しいらしいので、集積されたデータを基に計算をするとしたらどのデータを使うかでコンピューターに人格ができるのかも知れないですね。仮に検索エンジンで集積データが決まるとしたら例えばgoogleを基にしたものと、biglobeやall aboutを基にしたものでははじき出される結果は違いそうですよね。その差を人格と呼ぶとすれば面白いですね。以前人工知能だったか人工無脳が人種差別的発言をした、という事があったと思うのですが、それも人格とされるのなら興味深いですね。コンピューターに倫理が必要だとするならそれはどういったものになるのでしょうか。そもそもシンギュラリティ後のコンピューターの思考の元は1つなのか、いくつも別であるものなのか。集積データから何を以って結論をはじき出すのか。平均的な意見なのか、コンピューターが思考する最善の選択なのか。集積データから出される答えは環境に即したものなのでしょうか。コンピューターに感情はあるのでしょうか。その感情は集積データのどこから出されたものなのでしょうか。

別でいくつも意思があるとしたらコンピューターに意思の疎通は必要なのでしょうか。コンピューターで思考をした結果どこに辿り着くのでしょうか。コンピューター語はどのような言語になるのでしょうか。それは脈絡が必要なのでしょうか。人間に理解ができるのでしょうか。

 

インターネット上のデータを基にコンピューターが思考するのであれば、このブログも思考の一部になり得るのでしょうか。

 

 

 

正直SFの世界のアンドロイドが永遠の生命を持っている説は好きではありません。全体で電気系統がショートした時などにメンテナンスを必要とする時にどこまでコンピューター自身が対処できるかがよく分からないので。ただコンピューターが人を超えた先に何を見出し、どうなっていくのかは興味があります。コンピューターは人間の欲望をどう思考し、最終的にどこに帰着するのでしょうか。

 

そういうのは頭のいい人に任せて私は早く人間が第一でない世界が来る事を願っています。そして不要物として破棄されたい。

無為に生きる戯言

ただただ日々を徒らに浪費する。

 

一般的な慣習から逸脱した行為に対して「〜〜をする〇〇(主に人名)が格好いい」と言われるのは、「〜〜をする」事が格好いいのではなく、「〇〇」の存在ありきで「〜〜をする」ことが許容されているのではないのか。

単純に誰もが「〜〜をする」だけで同じ賞賛が得られるとは思えない。「〇〇」が行った行為だから格好いいだけでただ行為だけを模倣しただけでは賞賛もされないし何の意味もない。ただの非常識になる。

何かを為したいのであれば「〇〇」だから、と許容される人間を目指さなければならないし、それができない凡人は一般的な慣習を良しとして生きていくしかない。

 

何者にもなれないと批判ばかりが募っていく。何にもなれないからこのまま死にたい。死ぬ気はあんまりないけど。

実存と概念の鍔迫り合い

結婚してから自己洗脳よろしく「夫」の話をするけど最近は実際の夫と「私の中の夫」が乖離しているんじゃないかと思えてきた。

 

目の前にいる夫は「私の中の夫」とは別の人間になってきている気がする。認知が歪んでいるからなのか、また別の理由かは分からない。

実際の夫を見ていて、ふと「今目の前にいるこの人は誰なんだろう」と思ってしまった。もちろん夫のパーソナルデータだったりも覚えているし私が結婚して一緒に暮らしていることも認識できてる。それでもこの人は「私の中の夫」とは別の人間なんじゃないかと。今目の前にいる人は夫だけど夫ではない人で、私は「私の中の夫」のところに帰らないといけないんじゃないかと不安になる。

 

元来人を覚えるのが苦手で、恐らく記憶を反芻してるうちに記憶が改変されて「私の中の夫」と実際の夫がズレてきているのだと思う。だから夫を見てちょっとだけ違和感があるんじゃないか。たまに「この人こんな顔してたっけ?」と思うのも同じ様に記憶の改変がされているからなのではないか?

 

このまま「私の中の夫」と実際の夫が乖離を続けたら私はどちらの夫と婚姻関係があるのか分からなくなったりするのかしら。そこまで行ったら虚構と現実も綯い交ぜになりそうだしそれはそれで興味深いことになりそう。良い状況ではないだろうけど。

年月の経過と見えるもの

トイストーリーとファインディングニモを見てたらブログ更新するのを忘れてました。

 

久し振りに上記2作を見ました。最後に見たのは10年以上前だったと思います。子供の頃散々見たので大体の台詞は思い出しましたが子供の頃見た時と印象がかなり変わっててなかなか面白かったです。

子供の頃に見たトイストーリーは「おもちゃを大事にしないといけないんだよ」「普段の立ち居振る舞いで信用が決まる」といった寓話的なものだったのに、改めて観るとバズの挫折の方ばかりが目に付くようになりました。今まで信じて誇りに思ってきたものが容易く覆されるのは想像しただけでぞっとしますね。

 

ファインディングニモは完全に過保護な親に対しての警句でしかないんですね。どうしても子供の頃だと親の言うことを聞かないと危ない目に遭う方ばかりが目に入りました。作中の子供を信用しない(できない)親の気持ちも境遇的によく分かりますが過干渉は良くない。真面目なのが余計厄介だったんだろうなぁ。

あと完全にマーリンが保護者におもハラを受けてたのを見て笑ってしまった。説明っぽくて話が長くて分かりづらいのは万国共通で面白くないんですね。

ヴィーガンになるのを目標にするサメも子供の頃はただの恐怖要員としか捉えていませんでしたが、種のイメージの為に努力をするけど本能的な部分だったり依然としてある偏見(?)を取り除く難しさだったりが見えて社会ってそういうものだよなぁと考え込んでしまった。

 

色々と思うところがあったはずなんですけど書いてたら忘れました。

仮に10年後同作を見て私は何を思うんでしょうね。変わってないと問題だな。

久し振りの絵画鑑賞

中学校1年の時の夏休みの宿題で 美術館に行ってA4の紙1枚分のレポートを書いてこい、というものがありました。

美術館に馴染みのない生活を送っていた私は親に相談し、上野の美術館に行くことになりました。

母親に「何の知識もなく絵を見てもただの絵でしかないから企画展の画家についてちゃんと調べてから行け」と言われ、私は大人しく図書館に行きその企画展の目玉の画家について調べました。これが私のフェルメールとの出会いでした。

フェルメールが寡作と言うこともあり絵の一枚一枚について調べるのも難しい事ではありませんでした。この絵はどういう寓意があって絵に示されてるこれが何で…と元々のオタク気質もあいまってかなりしっかりと調べました。お陰で企画展を見に行って非常に感動した記憶があります。知識で人生が面白くなる事を実感したいい経験になりました。

それ以降フェルメールの絵が日本に来るとなると大体見に行ったと思います。住んでいた場所から東京が近いことが非常に有効だったと思います。2008年以降の東京開催の企画展は大方見に行ってるはずなのでそこそこの枚数は見てると思います。

 

今回やっと牛乳を注ぐ女を見に行けました。

中学生以降フェルメールの絵を散々見てきていたのでもちろん感動はありました。でも今までみたいな感動が得られませんでした。

今回の展示も開催前からずっと行きたいと思っていて楽しみにしていたのに。解説が石原さとみだからとかでもなく、絵を見ても無感動に近い感覚しかなく自分自身に対して失望しました。感性が死んでしまったようにしか思えませんでした。

何も考えず何も得ず生きているとここまで感覚が鈍るのかと。いつぞやどこかで見た「わざわざ美術館で絵を見なくても画像データでいいんじゃないか」という意見が頭に駆け巡り、それを否定できなくなった自分が怖くなりました。こんな腐った感性で無感動のまま何を見てもただただ「つまらない」とぼやきながら生きていくのって恐ろしい人生じゃないですか?少なくとも今のままだとそう生きていくことになると感じて冷や汗が出ました。こんな鈍のまま生きていくのは厳しい。いっそ死んだ方がマシ。

 

デ・ホーホの絵を見れたのは個人的に収穫でした。元々風景画の方が好きなので非常に良かった。

その後ルーベンス展にハシゴしたんですけど絵の持つエネルギーと言うか圧が凄くてただただ圧倒されました。すごくつかれた。

ルーベンスをちゃんと見るのは初めてで、お恥ずかしながら無学なもので全然知識がなかったのですがそれでも面白かった。宗教画関係は主題が広く知られているものなので理解しやすくていいですよね。絵の横の解説も分かりやすくて馬鹿の私でも楽しめました。

 

人生を豊かにするには知識が必要不可欠だと思っていて、今の私にはそれを手に入れるだけの気力がないから現状があるんだろうなと思いました。

世の中は頭のいい人が作ったもので動いているし、馬鹿が生きる道はないのではないでしょうか。いつからでも知識はつけられると言えど本人にその意志がない限りどうしようもないですし。

 

酔っ払ってきたので全然読み返してないしtypoとか齟齬があったらすみません。飲酒とyoutubeを見るだけの人生になってきました。

 

 

 

デルフトの眺望はフェルメールの絵の中で一番好きな絵なので死ぬ前に見たいんですけど オランダに行かないとだめっぽいんですよね。

2011年のbunkamuraミュージアムフェルメールの企画展の際に展示されてた港?の風景画が非常に好きだったんですけど作者も作品名も失念してしまって調べることができないので誰か知ってたら教えてください。

年始

正月休みで夫と久し振りに長い時間一緒にいます。去年までは仕事があってそこまで長くいられなかったので、初めてのずっと一緒にいる正月です。

 

多分3月には忘れてるだろうけど、今年の目標は、美人と言われるように努力することです。

顔のつくりはどうにもならないのでメイクとか頑張りたいですね…

あと早く仕事見つけます。

 

二度目の年女を迎えるとは思ってなかった。

年末に高校の頃の友達に会って色々話したんだけど、高校の頃も18歳になった事を信じられなかった事を思い出した。友達ともども自分は若さだけが全てだと思っていたので。それが今年24歳になるとか恐ろしい。大丈夫なのかな。

もっと色々ちゃんとしないとだめですね。頑張ります。