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新聞を取っていないのでここがチラ裏

感性すら衰える

感性が明らかに衰えてきている

今まで感性だけで生きてきたのに!それすらなくなると何もなくなるのではないかと思えて恐ろしくなる

 

感性は知識に裏付けされた感情だと思っていて、知識がないと感性は磨かれないと言うのが私の持論です。

1年弱引きこもって、どんどん脳が退化し ただでさえ少ない知識も日に日に目減りしていくのを実感しています。新たに知識を入れようとも思えない。ただ毎日を浪費する生活だとここまで全てが衰えるのか、と焦りが生まれては消えていきます。

 

感性は衰えてるのに感情は全く変わらないので出どころが違うものだとよく分かりました。理性と感情みたいな。

子供の頃よく親に怒られていて、その後の怯えと誰に求められてるでもない自己正当化で焦燥感をひたすら覚える生活が長く続いていました。

今もその時の焦燥感を感じていて、誰かに怒られたのではないかと思う日が続いています。

夫以外の人間と会話をしていないので、夫に「私 最近怒られたっけ?」と訊いてみたところ 夫には怒られていない事が分かっています。なのに誰かに怒られてる。怒られてる最中の記憶はないけど明らかに怒られたように思える。何を怒られたか記憶にないけど子供の頃からそうなので単純に記憶が飛んでるだけかも知れない。恐らく私自身の非難を浴びてるんだと思う。それなのに記憶がない。私の中では誰かに怒られて その後自分の行動を「これ(例えばトイレで用を足す等)はやってもいいはずだから怒られないはず」と正当化している気持ちでいる。自分が何か怒られるような事をしているんじゃないかと ひどく焦燥感に駆られ不安だけが募る。怖い。誰に怒られているか分からない。

近頃は寝付くまで自己暗示をしないと眠れなくなってきました。大丈夫、大丈夫と寝るまで延々と唱え続けると眠れます。一瞬でも切らすと不安感で押し潰されそうになり眠れなくなる。根拠のない肯定が欲しいだけなのかも知れません。それはそれで不安になるだけなんだろうけど。

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意志と存在、あとはただのデータ

 

Serial experiments lainを見ました。

私が求めていたものは全てここに集約されていた、と言うのが全てです。

自分の周囲の閉じた社会だけが自分の世界であって不確かな現実、仮想現実側が現実に寄るのではなく 現実が仮想現実との境目が曖昧になる、現実の方が信用に足らない、思考パターンを認識させることで遍在化できる、肉体が無意味であること、自分ではない自分は最早可能性だけの存在ではなくなった、同じ世界線に同じ人間が存在しうること、自分の意識が自分の全てではない

私が追い求めていた世界が私が3歳の時に既に出来ていた事を知りました。

 

カルト的な人気があるのはよく分かりました。今だからこそ分かる部分も多いのだろうなと思いましたがこれは1998年に放映されたことで意味があるものなのではないでしょうか。

SFものを年月が経ってから観る時、あまりにも現在に近しいがゆえにタイムスタンプの狂った作品になっていて当時の衝撃を感じられない作品が稀にありますが、まさにlainはそういった作品なんだと思います。

例えば東のエデンセカイカメラのようなものが描かれていたり(アニメ放映時にセカイカメラってもうあったような気もしますが)、電脳コイルの眼鏡はgoogle glassのようなものだったり。ある重要な小道具が現実化すると当時の想像力からの驚きなどが得られず、ある種のグッズのように思えてしまいます。

lainの作中でもVRゴーグルのようなものをして街中を歩く男性がいました。wiredは今は亡きセカンドライフVR Chatのようなものに映ります。遍在する意識はAIの人格のようなものでしょうか。

最早現実はSFやサイバーパンクの世界になってきており、憧れてきたものは現実になり使い古されていくのをただ享受し、受け流していくだけの世界です。車は空を飛んでいないし、ドラえもんもいないけど、現在からのSFを描く難しさをただひたすらに思う日々です。

 

ゲーム版の内容もあらかた見ましたが、現実に干渉する終わり方って大好きなんですよね。記録を追うことで思考パターンが自分に組み込まれる感覚、自分の意識の中に”lain”の一部が生まれ遍在する一部になる。これこそが私が抱いていた理想です。その行為を神になる事だとは考えたこともなかったですが。

 

久し振りにひどい風邪をひいて数日声が出なくなってずっと寝てる時に見たのでちゃんと見るべき場所が認識できていないかも知れません。

もう一回ちゃんと観たいと思います。

 

熊パジャマの玲音が最高にかわいかったのと、コードに繋がれたあの様子は健全な青少年の性的嗜好を刺激するだろうなと思いました。

誰も見ていないところで死にたいと喚く時が生きている事を実感できる

24歳になりたくない。

何も成長してないのに年齢だけが増えていき、どんどん精神と肉体の均衡が崩れていく。人と会話もまともにできない。

何にもなりたくないし生きていても何にもならないから死にたい。

 

 

 

早めに死ななきゃいけない気がしてぼんやりと焦燥感を感じながら日々を過ごすのもいい加減やめないといけないとは思うんですけど死ぬ以外に解決方法が見出せません。

そのくせそろそろサプリメントの買い置きがなくなるから今度セールの時に買っておかなきゃなとか、これから先も生きる前提で物事を考えていて苦笑いしてしまいました。

 

最期くらいは酒を好きなだけ飲んで好きな音楽を聴いてそのまま死にたいのでそれが出来る方法を色々考えています。

遺書は夫に手書きで遺したいけど誤字とか書き直しばっかりになって一生書き終わらない気がするので印刷かなー

死ぬ前に携帯とかパソコンを全部初期化してからじゃないとまずいので忘れないようにしないといけないとか、遺品整理の手間を掛けないように身辺はちゃんとしておかないといけないなとか、燃やされる前に着る服も選んでおきたいなとか。何年も考えているだけあって色々やらなきゃいけない事が出てきますね。

 

遺書を書いてると落ち着いてくるので気が滅入ったら遺書を書くのがいいかも知れない。

 

今までラブレターって書いた事がないんですよ。子供の頃のは別として。夫にも手紙を書いた事がないので遺書が初めてのラブレターになりそうです。

遺書を書いてるうちに何か変に気持ちが揺れて夫にバレない様にちょっと泣いて、気付かれないうちに取り繕って、また書いてを何度か繰り返して大方遺書が書けました。最期まで綺麗事だけを並べ立てて死にたい。こんなヘドロの様な無駄な感情は誰も見てない電子の海に投げ捨てるのが一番。認識されなければ存在していないも同義だし。

 

手間取らずに、さらっと死にたい。

何も伝えようと思っていない

酒を飲むことで殆どない思考が溶けていくのが快感で仕方がない。麻薬の類いをやったら100%依存するのが目に見えている。

酒を週5で飲むようになって精神的に安定するようになったので私には酒が足りていなかっただけなんだと思う。

 

何一つ頭を使わず薄ぼんやりと日々を希釈していく事がどれだけ中毒性の高い行為かが身に染みて理解できるようになった。恐らくこれは生産性のある人のたまの何もしない日とは違うだろうし、そういった人には理解されないだろう。ご高尚な人間様の仰います低俗な物がこの世からなくならない理由がよく分かる。何も生み出さない明盲の様な生活の方が楽しいと思う人間が一定数いるからだ。いくらご高説を垂れ流されたところで価値観が違いすぎて何の意味も為さないのでその方が非生産的だな。人間は改心なぞしない、説教で自己顕示欲を満たす人間にはなりたくない。そんな風にしか歳を重ねられないのなら死んだ方がいい。

 

インターネット上に跋扈する有象無象の意識高いインテリ達はこの快感を知らずに生きているのかと思うと信じられない。もっと興味深く面白い事があると鼻息荒く言われるかも知れないが、毎日が緩やかに死に向かっている事を実感しながら意識を無にする事の素晴らしさと言ったら!靄がかった様な意識に最初は恐れたりもしましたが、今は何も見えない思考でいる事が自然なのではないかと思っています。

 

明澄な頭脳を持つ人が狂人に見えてきたので今日はここまで。

電子上の死が現代の死?

過去のブログ記事を見ていて 内容はともかく 私が死んでも残っているであろう存在が愛おしくて仕方ない。

 

1年前から精神的に成長してないなと思うんですけど、読み返すと文体もほんの少し違和感を覚えるようになりました。元々上手くないけど更に文章下手になった?やっぱり思考力の低下?理想はtumblrに流れてくるような文体なんですけどああはなれないんだなと失望しています。

 

葬式は死んだ人間の為よりも、遺された人間の為の儀式なんだろうなと思うようになりました。遺された人間が仕切り直して(?)生きる区切りのようなものなのではないかと。

宗教観とかそういうのは頭の良い人が考えればいいと思ってます。ばかにはよくわかんないですし。

 

本人にとって死が全てをなかったことにするとして。普通に生きていたら生者の記憶にしか生きていた記憶が残らないと思います。世帯主なら戸籍だったり家系図に残る事もあるかも知れませんが、何も遺さず死んでいったら存在の抹消も容易いのかも知れないですね。

こうやってブログを残したり、SNSを利用することでそのサービスが終了したり更新のないものが抹消されるまでは私の思考が電子上に残っていると思うと自分の命より長く存在しうるのではないかと思えて非常にロマンがあります。

例えば大きな天災だったり何かの人災に巻き込まれて自分が死んだとして、死は急に来るものでそれを遺す事ができないとしたら、死んだ人間の過去の思考を そうと知らず第三者が目にする事ができる可能性があるって事ですよね。それは非常に興味深い事だと思います。

 

電子上に残った私の思考が電子上の総意の一部になったとしたら、それは非常に興味深いでしょうね。例えばgoogle検索でこのブログに行き当たるとして、生きている人間がこのブログを見て思考の一部に取り込まれれば私の思考が一部生きている人間に干渉し、思考が消えて影響を一切受けなくなる事が死であるならば私の命はこのブログが残っている限り永遠になりうる可能性があるって事にならないですかね。

 

酒を飲んでクダを巻いてる様なブログが残る事が果たしていいことなのかは分かりません。酒で頭が回らないので今日は終わり。

語る言葉もなくなった

今まで沢山の好きだったものから離れてきて、自分の好きだったものとは何だったのか分からなくなりました。

 

離れたってことはそこまで好きではなかったんでしょ、と言われると自分が何だったのか分からなくなる

確かに何よりも好きだったはずなのに。本当に好きで好きで心酔すらしていたのに。

自分の過去をなかった事にされている気がする。被害妄想。

 

あれだけ好きだったものから離れてきてしまい、今好きなものから またよく分からない理由で自分から離れてしまうのではないかと思うと恐ろしい。遅かれ早かれどうせ離れるのであれば、好きなものが存在する事すら無意味なのではないか。

鏡を見ているような感覚

特別であろうと思う事 とは。

 

子供の時分から自分が特別な人間だと思いたかった。

自分だけが特別な人間で、それこそ本当に幼い頃は例えば魔法が使えたりだとか、何をやっても天才的に上手くいくだとか、そういった存在であると信じていた。

実際は特別どころか並の人間以下だと分かって絶望した。

 

 

みんな大好き中島敦山月記。何であんなに人気なんでしょう。名作だからとか教科書に載ってたからだとかその程度では収まらない人気がありますよね。敢えて俗っぽい「大好き」や「人気」と表現をしたくなる位ミーム化しているように思います。

 

選民思想がどこからくるのか、何故自分が特別に優れていると思うのか、誰かに教わるでもなくそういった考えを持つ理由とは、本能的に思うものなのであればそれが何に必要で何に役立つのか、自分が何者かでありたいと願う感情はどこから来るのか、自己の確立としてどこまで自分を信頼すべきなのか、自信と驕りは何が分岐となるのか同じものなのか、

 

ちょっとだけ考えましたが頭が足りないのでよく分かりませんでした。でもそんな事は必要な事ではない。

 

 

 

「一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れない」と虎に成り果ててなお詩業に執着しても一流になるには欠けていると漠然と思われる事の屈辱感は計り知れないだろうな。

自意識が高くその裏返しで青年の頃から自嘲癖があるだけで自分が特別であるはずだと心から信じ、猛獣に身を落とし自省しているように見せて「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ」などと言える図太さがあって「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」なんてよく嘯ける。

 

全部ブーメランなんですけどね。自己紹介にしかならない。

勉強もできず才能もなくただ自意識だけが募る凡人は発狂もできず虎にすらなれない。